グラハムの投資理論を学ぶ:防御型投資

 コロンビア大学ファイナンスの教鞭を取る一方、ウォールストリートの投資家として実務を重ねるグラハムは、1926年にウォールストリートのビジネスパートナーであったジェローム・ニューマン(Jerome Newman)とグラハム・ニューマン社を設立、株式投資を本格化させている。なお、この頃のグラハムの投資理論については記述が少なく、彼およびニューマンがどのようなポリシーにもとづいて投資を行っていたかについては想像するしかほかがない。

 ところで、1929年といえば大恐慌の年であるが、大恐慌はグラハムとニューマンの組成したパートナーシップにも大きな損害を与えた。投資先を株式に集約していたグラハムのポートフォリオは株価の暴落によって大打撃を受け、グラハムは所有する資産のすべてを失う憂き目に見舞われる。この時、無一文になったグラハムを救うため、ニューマンを含めたパートナー達が個人資産を売却してグラハムを援助したと伝えられている。

 家計が困窮したグラハム家を助けるため、グラハム夫人も一時的にダンス教師の職に復したとされる。なお、当時のダンス教師の収入は極めて少なく、このことからも世界恐慌によってグラハムがいかに困窮したかをうかがい知ることができよう。

 もともと生まれた一家が経済的理由からアメリカに移住し(もっともグラハム自身は一歳の幼さで、そのような事情は知るよしもないであろうが)、新天地アメリカへ移住した間もなく父親が亡くなり、残された未亡人、つまり彼の母親が細腕一本で家族を養ってきたのを幼子の目で目撃し、それを救うがために名門コロンビア大学に入学、はからずもファイナンスを専攻、教鞭のオファーを断ってまでもウォールストリート入りしたグラハム。一時は50万ドルという破格のサラリーを取って高級投資家として名をはせていたが、不遇にも1929年の世界恐慌により自ら経済破綻、まさに経済の苦渋をなめ尽くしたと言っていいであろう(なお、これも余談になるが、彼の弟子であるウォレン・バフェットも若くして経済的苦渋を味わっている。経済的に優れた人間は、一度経済的に苦渋をなめると往々にして超越した経済的復活を果たすことがあるようだ。なお、この辺のバフェットのくだりについては、バフェットについて解説する時にあらためてお話したい)。

 世界恐慌が世界的カネ余りに端を発したひとつのバブル経済であったことは衆目の一致するところであるが、この、極めてドラマチックな人生の局面においてグラハムが学んだことは、「株価とは、いずれにせよ虚構により実体以上に評価される」という事実であった。市場で取引される株式の価格は、経済合理性にもとづいた「本来的な株価」として形成されるべきであるが、一方、虚構により株価が「実体以上に評価されることが往々にしてあり、その結果、世界恐慌も含めたバブル経済が形成されることがある」それゆえ、損をしないためには、その「本来的な株価」を知ることが必要であると実感したのである。グラハムは、みずから私財を失うことによって、この教訓、彼の死後も燦々(さんさん)と光を放ち続ける教訓を、はからずも悟ったのであろう。
(次回へ続く)