グラハムの投資理論を学ぶ:南海泡沫事件

 経営不振に陥った企業が、ことの背景や理由はいずれにせよ、徐々に詐欺師集団化してゆくことが往々にしてある。1712年に設立された南海会社も、その例外ではなかったようだ。

 南海会社の経営者達は、投資家に対する表向きの体裁を整えるのは巧みであったようだ。同社はロンドンの市中に豪華な建物を借り、役員室には30個のスペイン製の、黒光りする椅子を置いた(このあたり、まるでライブドアの経営陣が六本木ヒルズにオフィスを構え、役員室に豪華な設備を施すのとまったく同じであろう)。同社の経営は、奴隷貿易の失敗や、あらたに手がけた羊毛貿易の失敗などによりいよいよ悪化したが、同社の経営陣はそのことはまったく口にせず、同社の未来はあくまでもバラ色であると投資家を騙し続けたのである。

 なお、南海会社という会社は、その設立当初から他人の犠牲において巨万の富を手にしている。つまり、南海会社が肩代わりしたイギリス国債の持ち主は、それと引き換えに南海会社の株式を受け取ったからである。事前に南海会社の設立の話を知っていた者は、市場で55ポンドの安値で国債をこっそり買っておいて、南海会社が設立されると同時に額面100ポンドで交換したのだ。

 さて、いよいよ追い詰められた南海会社の取った苦肉の策は、同社を財務的に復活させるために発案された「富くじ」というものであった。これは、今でいう宝くじに相当するもので、南海貿易で得られた「利益を還元」するといううたい文句で一般から資金を集めるというものであった。1718年に発売された同社の富くじの仕組みはいたってシンプルで、富くじを買えば「利益還元」からなる賞金が当たるというものである。イギリスの大衆はこれをこぞって歓迎し、同社の富くじはまたたく間に同社に多額の現金をもたらした。
 
 この富くじの成功が南海会社を貿易会社から金融会社へと一変させることの契機になったとされる。このあたり、ライブドアが最初の株式交換で巨額の利益を得たことによりホームページ制作会社から金融会社へと転換していった経緯と恐ろしく類似している。

 財務活動によるキャッシュの獲得に目覚めた南海会社は、次なる財務計画を打ち出した。それは、イギリス政府の発行する新規国債の全額引き受けの見返りに、同社の新株式を等価交換で発行するというものである。財政悪化に苦しむイギリス政府の新規国債と、イギリス政府の国策会社である南海会社の新規株式という、どちらもそれなりに投資対象としては不適格と思われる銘柄同士を等価交換するという、現代の感覚ではまったく理解できない取引が成立するという時点で既に異常だと思われるが、当時のイギリスでは、この取引成立を発端に、いよいよ狂気のマネーゲームが開始されたのである。
(次回へ続く)