グラハムの投資理論を学ぶ:南海泡沫事件

 富くじの成功に気を良くした南海会社は、1719年にイギリス政府に対し、垂涎ものと即座に判断される極めて魅惑的なオファーを提示した。それは、新規に発行される国債の半額(総額30,981,712ポンド)という巨額の債務を、同社が発行する新株と引き換えに5%という低利で引き受けるというものであった。この疑惑の取引の目的は、イギリス政府においては高利の国債の利息負担削減と、南海会社においては発行新株の市場への放出によるキャピタルゲインの獲得にあった。先に説明したチューリップバブルの時と同様、時のイギリス国民は「有望な投資先」を求めてやまない状態にあったのである。

 さて、この時点における時のイギリス政府の債務状況を確認しておこう。1719年時点でのイギリス政府の発行済み国債残高はおよそ5,000万ポンドである。うち、1.830万ポンドは三法人が所有していた。イングランド銀行(イギリス中央銀行)が340万ポンド、東インド会社が 320万ポンド、南海会社が1,170万ポンドである。現代の我が国における日銀に相当するイングランド銀行の所有する国債の3倍の国債を一株式会社が保有していたということで既に驚きだが、一方で、当時のイギリス政府の、まさになりふりかまわぬ金策の様相を見てとれるという意味で、ある意味で大変に興味深い。 

 なお、中央銀行たるイングランド銀行は、上の南海会社のイギリス政府に対するオファーのカウンターオファーを出してきたが、それに対して南海会社が750万ポンドを追加で上乗せすることでディールが完全に成立する運びとなった(なお、この750万ポンドに加え、130万ポンドが政府高官に対する賄賂として使われたと言われている)。南海会社のオファーは1720年4月に正式に裁可され、晴れて公式のものとなった。なお、この裁可を最後まで強く推進し続けたのは、時の貴族院議員ジョン・アイスラビーであったとされる。

 さて、このディールの最大の目玉は、国債所有者に対する南海会社株式の贈与オプションにあった。今では信じられないことであるが、当時の、この「非償還型国債」は、一定の価格における南海会社株式の付与がオプションとして提供されていた。つまり、イギリス国債の「非償還型国債」については、国債保有者がオプションを行使すると南海会社の株式がタダで取得できたのである。このスキームが、後の一大バブル発生の口火を切るのであるが、当時のイギリス政府の苦肉の策とはいえ、国債に投資ゲーム性を加味したという点が、生来ギャンブル好きといわれるイギリス人の国民性を彷彿とさせるので嫌が上にも好奇心をそそられる。

 しかし、巨額の国債が南海会社の新規発行株式とともに発行されたため、市場システムの受け皿がたちどころに満杯になったのは自然の成り行きであった。この時点において南海会社は発行済み非償還型国債の80%と、償還型国債の85%という大量の国債を抱えていたが、ここで新たな「財務戦略」を切り札として打ち出すことになる。南海会社は、今度は市場に「風説の流布」を施すことにより、この難局を克服しようとしたのである。
(次回へ続く)