グラハムの投資理論を学ぶ:南海泡沫事件

 もともと実体のない株式が実体以上の価格で取引されていた場合、それが下落した時のスピードは想像以上に速い。1720年8月に株価のピークを迎えた直後に暴落した南海会社の株式は、9月には175ポンドへ下落し、その後どんどん値を下げて12月には124ポンドにまで下落した。往時の1,000ポンドから実に七分の一にまで下落したのは、最近のライブドア株の価格下落幅とほぼ同じであり、大変に興味深い。

 さて、南海会社の株式の下落は、当然のことながら南海会社に追随して市場に登場してきた「新興企業」の株式の下落を誘発した。南海会社よりもっと怪しい会社に投資をしていた人たちは、それらの株式が紙くずになることによって経済的に破綻した。市民の中で破産するものが続出し、自殺者が激増した。イギリス議会は混乱を収拾するため、損失を出した投資家を救済するいくつかの政策を決議したが、それもさほどの効果をあげることはできなかった。

 怒り狂った投資家の矛先は南海会社経営陣へ向けられ、同年12月には南海会社の責任を追及するため議会で調査委員会が組織された。委員会によって最初に南海計画の首謀者とされたのは、同社の創業メンバーの一人で、元々代筆屋を細々と経営していたジョン・プラントという人物であった。プラントは、南海会社への投資で大損を蒙った投資家から路上で狙撃されたりしたが(運良く難を逃れたが)、南海会社の同僚を売ることによって最後まで保身に成功した。プラントによって政府に売られた南海会社の元経営陣達は、財産を政府に没収され、まったくの一文無しになってしまった。のみならず、彼らのほとんどは投獄され、新興企業の役員から一転して塀の中の人になってしまった。また、南海会社の経理を担当していたロバート・ナイトという人物は、追及の手が及ぶ前にヨーロッパ大陸へ逃亡したが、現地で逮捕され、イギリス政府から犯罪人として引渡しを求められた。ナイトは何とか逃亡に成功したが、それからの人生の21年間を亡命者として過ごす羽目になった。また、南海会社の創業当初からこの「プロジェクト」に関与していた古参の国会議員ジェームズ・クラッグスは自ら死を選んだ。そして、南海泡沫事件の顛末は、チューリップバブルの時と同様、その後のイギリス経済全体の長期低迷という最悪の結末を迎えるのであった。

 この事件の反省として、イギリス議会は1721年にバブル防止法を施行し、企業が新規に株式を公開することを正式に禁止した。これにより、この法律が1825年に廃止されるまでの、実に100年間にわたってイギリスでは新規企業の株式公開が行われることはなくなった。株式市場は開店休業状態に陥り、流通する株式そのものの絶対数がほとんど皆無の状態に陥った。そして、株式の未流通は経済のさらなる硬化をもたらし、イギリスが産業革命で復活するまでの間、イギリス国民全員に極めて大きな経済的負担を課したのである。
(次回へ続く)