バブル経済に学ぶ:ミシシッピ会社事件

 偉大なる経済学者アルフレッド・マーシャルは、ジョン・ローについて、「無謀で、バランスの悪い人間であるが、極めて魅力的な天才である」と述べている。また、カール・マルクスは、「詐欺師と伝道師を混ぜ合わせたような、一種の好ましい人物である」と述べている。歴史上の偉大な経済学者達をしてこのように言わしめるジョン・ローとは、いったいどのような人物なのであろうか。

 ジョン・ロー(John Law)は1671年にスコットランドで銀行家の息子として生まれた。幼少期をスコットランドで過ごしたローは大学生活をイギリスのロンドンで送り、政治経済学、商学、経済学を専攻した。ところが、1694年に決闘で相手を殺したカドでアムステルダムへ追放され、後、同地で銀行学を学んだ。

 1705年、34歳になったローはスコットランドへ帰国し、母国で処女作「通貨および貿易についての一考察、国家に対する通貨供給の提言を添えて(Money and Trade considered, with a Proposal for Supplying the Nation with Money)」を出版した。同年、ローはさらにスコットランド議会に対して国営銀行の設立を提言したが、ローの意に反して却下された。

 失意のローはその後、ヨーロッパ各地を転々として暮らすことになる。彼の編み出した金融スキームの採用者を探すべく、放浪を続けるローに幸運が訪れたのは1715年のことである。フランスに移ったローのアイデアについて、並ならぬ関心を時のオルレアン公爵ルイ・フィリップ1世(時のフランス国王ルイ13世の後見人)が持ち、そのまま採用に踏みきったのである。

 当時のフランスは、長く続いた外国との戦争の費用負担で国家財政が疲弊し、事実上の破綻状態にあった(なお、南海泡沫事件を発生させた同じ時期のイギリスも同様であった)。破綻した財政を再建するため、オルレアン公爵は、一見奇抜な、しかし極めて斬新に見えるローの金融スキームを採用し、起死回生のチャンスにかけたのである。

 ローの編み出した金融スキームとは、まさに国家レベルでの見事な錬金術と言うべきものである。ローはまず、オルレアン公爵に王立銀行の設立をもとめ、即座に許可された。王立銀行を設立したローは、ここでひとつの、決して実体を伴うことのない「金融商品」を販売することにより、国家の金庫に多額の現金を集めようと企てたのであった。すなわち、王立銀行の設立資本金として600万ルーブルを一般から集め、その支払い資本金に対して1,200株の株式、つまり一株5,000ルーブルの株式を発行することを計画したのだ。先に紹介した南海泡沫事件と同様、王立銀行発行株式という、一見極めて安全と思われる投資商品が、ここでも「一般投資家が買いやすい価格と方法」をもって販売されることになったのである。
(次回へ続く)