バブル経済に学ぶ:ミシシッピ会社事件

 今回から偶然にも南海泡沫事件と同じ時期にフランスで発生した別のバブル事件、「ミシシッピ会社事件」について解説する。なお、前回までのコラムタイトルは「グラハムの投資理論を学ぶ」とさせていただいていた。一方、当コラムの最近のテーマは、ほとんどバブル経済に集中している感があり、今回からタイトルを「バブル経済に学ぶ」と改めさせていただく。なお、グラハムの投資理論については、後日体系的に論じる予定である。また、筆者は近日、グラハムの投資理論を解説する本を出版する予定でもある。その節には改めて我が読者諸姉諸兄にご案内させていただきたいと思う。

 さて、ミシシッピ会社事件とは、アメリカ大陸フランス領ルイジアナコロニーを舞台に展開された一大バブル経済事件のことである。賢明なる我が読者はご存知と思うが、現代でいうミシシッピ州を中心としたミシシッピ湾沿岸地区は、1763年にアメリカ合衆国に併合されるまでフランスの植民地であった。アメリカ新大陸における植民地争奪戦は、イギリス、フランス、スペインの三国によって繰り広げられたが、フランスの主要活動地域はミシシッピ湾を中心とした同湾岸地区であった。一方、イギリスの主要活動地域はボストンを基点とするアメリカ大陸東海岸沿岸で、スペインのそれはサリーナスを基点とするアメリカ大陸西海岸沿岸であった。なお、余談になるが、現在のアメリカ合衆国の各都市の名前が、東海岸がイギリス風で統一(例:ニュー・ヨーク、ウェスト・バージニア、ノース・カロライナ、ニュー・ジャージー等、いずれもイギリスの都市にちなんでいる)され、西海岸がスペイン風で統一(例:ロス・アンゼルス、ラス・ベガス、サン・フランシスコ、・サン・ホゼ等)され、また、アメリカ南部の都市がフランス風に統一(ルイジアナ、バトン・ルージュ、ミズーリ等)されているのはその名残である。

 フランスがアメリカ新大陸に進出、歴史家が言うところの北米植民地事業に進出したのは、コロンブスによる新大陸発見から80年後の1699年のことであった。フランスの植民地政策のお粗末さは、最近まで展開されていたベトナム戦争から、それ以前における一連の植民地外交失策の体たらくが証明しているが、フランスによる北米植民地の経営は、発足当初からつまずきを予想させるに充分なものであった。イギリス国民がアメリカ新大陸における自国の植民地について、それなりの情報を一般的に有していたのに対し、フランスの北米植民地についての知識は、極めて限定的であった。当時のフランス国民は、北米植民地における自らの植民地について、「領土がフランスより大きいことは知っているが、それがアメリカ大陸のどこにあるのかほとんど知られていなかった。また、金や銀が豊富に採れるらしいという漠然とした情報は伝わっていた」程度であったとされる。これは、フランスの北米大陸における植民地活動の中心が現在で言うカナダのケベック地区にあったことも多大に影響していたとされる。

 そのような状況の中に、ある一人の人物が登場する。彼の名はジョン・ロー(John Law)、フランス人ではなくスコットランド人である。このローが、後にフランス国中を大混乱に陥れることになろうとは、北米植民地事業が開始された頃には誰も想像だにしていなかった。
(次回へ続く)