バブル経済に学ぶ:ミシシッピ会社事件

 加熱するフランス経済を飽和させ、さらにはさらなる拡大のための材料としてローがぶち上げた事業計画は壮大そのものであった。1717年8月、ローは1712年にアントニオ・ド・クロサットが創業したルイジアナ会社と国営カナダ会社を買収し、西方会社(Compagnie d'Occident (Company of the West))を設立した。同社は、同時期のイギリスにおける南海会社がイギリス政府から南方貿易独占権を得た構図と同様に、フランス王室からアメリカ大陸フランス領ルイジアナ地区における冒険事業独占権を与えられ、同地における「収益事業」の一切を独占するというものであった。当時のフランス政府の見解では、アメリカ大陸フランス領ルイジアナ地区とは、ミシシッピ川の流れる土地の全般と、その支流地区の全土が含まれているものとされ、その「広大な領土」における冒険事業とは、フランスにとって夢のような富を約束するものとして理解されていた。そのようなフランス政府とフランス人民の大きな期待を一身に集めたローは、会社設立の翌年、同地区におけるタバコ生産独占権をフランス政府から獲得した。

 ローのぶち上げたコンセプト、これが今日で言うところのミシシッピ計画(The Mississippi Scheme)とされるものであるが、は、フランスのみならず当時のヨーロッパ全域で大きな評判となり、結果的にフランス以外の国の、投資家達の注目の的となった。そして、このローの大プロジェクトは、ヨーロッパの他の国にも伝播してひとつのブームを構成し、イギリスにおける南海泡沫事件を引き起こした南海会社を始め、「新世界」「新大陸」系ベンチャー企業を誘発するもとになった。

 1718年12月、ローの設立したフランス王立銀行はフランス王室銀行へ格上げとなり、ローは同行の初代頭取に就任した。そして、この頃にはローの発行していた王立銀行株式払込手形は信用を増し、時のフランス国王による債務保証を獲得するまでに至っていた。ロー個人に対する信用もうなぎのぼりに上昇し、彼および彼の発行する王立銀行株式払込手形の担保として、フランス国家収入の管理権と、通貨発行局そのものが差し出されるほどであった。このような状況の中、ローの主催するフランス王室銀行と西方会社の株価は上昇を続けた。

 なお、このあたりでローの発行していた王立銀行株式払込手形が、時のフランスにおける貨幣として充分に機能し始めていたことを説明しておく必要がある。ご周知と思うが、ローの生きた1700年代のフランス経済は、国の発行する貨幣を機軸とする貨幣経済ではなく、金および銀を根本とする金本位制経済であった。フランス革命以前のフランス王朝のもとでは、王朝および貴族による経済独占が基本であり、市場経済という観念が必ずしも成立していない状態にあった。人々の経済行為は交換経済にあり、その担保性を提供するものが金および銀であった。そのような状況の中、ローの発案による王立銀行株式払込手形が「貨幣」として立派に流通していたというのは、フランス民主主義の発露として見えなくもなく、ある意味極めて興味深い。
(次回へ続く)