バブル経済に学ぶ:ミシシッピ会社事件

 ローの発案による王立銀行の新規発行株式、つまり一株5,000ルーブル額面価格株式は、一般投資家にとって極めて求めやすい方法で販売されることになっていた。つまり、価格5,000ルーブルは4回の分割払いで、しかも最初の1回目だけ現金で、残りの3回は手形(厳密にいうと借用証書)でよいとするものであった。1716年の5月に最初の株式が発行され、民衆は即座にこれに飛びついた。王立銀行設立と同時に手形の発行と流通に関する権限を与えられていたローは、手形の換算価値を王立銀行株式の市場取引価格と連動させたため、株価の値上りにつられて手形の換金性は嫌がうえにも高まった。そして、それに目をつけたローは、さらなる王立銀行の株式発行を行うと一般大衆に対して発表した。

 翌年1717年4月、ローの発行する王立銀行株式払い込み手形は流動性を増し、フランス王国の税金を支払うことが認められるまでに成長した。そのような異常事態の中、王立銀行が通過供給量を適度にコントロールし、時のインフレレートを4.5%程度にまで封じ込めていたのはほとんど奇跡的であったとされる。しかも、その頃にはローの発行する手形の総額は、6,000万ルーブルにも達していたのである。

 銀行家の家に育ったローは、まさに根っからの銀行マンであったと思われる。ロンドンの大学で経済学を専攻し、オランダへ追放されてからも銀行学を学び続けたローは、正にプロフェッショナルバンカーと呼ぶべき男であったであろう。そのような男が、自分の裁量で発行される王立銀行払い込み手形がこれほどまでの水準で一般に流通するようになるのを見ると、常識的には間違いなく恐怖心を抱き始めたはずである。それは、もともと実体のない国力を基盤にした、世にも恐ろしいスタグフレーションを予見させるものであったからである。

 もしローが並の男であったとすれば、事態がこの辺にまで及ぶにあたり、持ち場をすててさっさと逃げ出したことであろう。もともと実体のない金融商品に飛びついてきたフランス経済とフランス人民が、ローの脚本と演出によるひとつの喜劇に酔い始めたのを尻目に、母国のスコットランドにでも逃亡したとしてもあながち不思議ではないであろう。あるいは、当時のローにしても、心の一片にそのような考えがまったくなかったと考えるのも、少々無理があると思われる。

 しかし、ジョン・ローは、やはり並の男ではなかったようだ。加熱しはじめたフランス経済を飽和し、浮き足立ったフランス国民を迎合するため、ジョン・ローは何と、ここでひとつの大国家プロジェクトを発表するアイデアを思いついたのである。すなわち、当時の夢の新大陸アメリカにおける、一大冒険事業を膨張するフランス経済の担保とし、また、あわよくばその事業そのもので実際に大儲けをしてしまおうという壮大な経済振興事業をぶち上げたのであった。
(次回へ続く)